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アイドルのストーカー問題を歴史から考える

 ある社会研究系の授業で提出した大学のレポートです。剽窃禁止。

魅力の威力

 私がたてるテーマはファンとアイドルのコミュニケーションについてである。具体的な事例としては、ライブに行くこと、握手会に行き会話をすること、アイドル側はブログを通してファンへ発信すること、ファン側は有料メッセージやSNSを通してアイドルへ発信すること。この4つだけである。しかし、このレポートでは例外的なコミュニケーションを取り扱い、それを問題としてそれに対する答えを探したいと思う。その例外的なコミュニケーションとは熱狂的なファンによるアイドルへのストーカー行為である。

 このコミュニケーション問題を考えるにあたって日本のアイドルとアイドルストーカーの歴史を考える。

まずは、近代のアイドルの一人として河合澄子を挙げる。彼女は、大正時代の東京歌劇座浅草オペラのメンバーの人気トップの役者(つまり、アイドル)であったようだ。現在と同じように河合澄子のファンはコール(ファンによる曲の間奏に叫ぶ掛け声のこと)をし、ファンの名称“ペラゴロ”というものがあったようだ。現代と変わらない熱狂的なファンの有様はストーカー関係でも同じようである。ペラゴロの実態について、『幻の近代アイドル史明治大正昭和の大衆芸能盛衰記』の著者である笹山敬輔は『花形』という文章を検討した。

 

『昔の女義太夫に堂摺と同じように、彼等は只女優に近づき言葉を交わすことで満足するものと、女優のどれかに思召しをつけて追い廻すものとある。それから又硬派とも称す可き一と群れがある。彼等は年少な学生の同摺に出会い次第意見をして追い返し、時に鉄拳をさえお見舞いする。(『花形』大正8年6月)』

(笹山敬輔 幻の近代アイドル史明治大正昭和の大衆芸能盛衰記 彩流社 2014年)

 

 つまり、大正時代にもほんのすこし言葉を交わすだけで満足したペラゴロもいれば、現代でいうストーカーのようなしつこく追いかけるペラゴロもいたということである。

 以上より、日本のアイドルとアイドルストーカーの歴史の一片を把握することができた。

 

 

次に、ストーカー問題について他の人による議論を整理する。

 

『(前略)そこで彼らは、《有名人》対《大衆》、《一》対《多数》という現実の関係に満足することができなくなる。彼らは有名人に対して無名でいることにいらだち、憧れの対象である有名人と《一》対《一》に、つまり《個人的な》関係を求めようと欲する。そこでスター・ストーカーになるのだ。』(福島章  ストーカーの心理学  PHP研究所1997年)

 

そして、以上の部分より私はスター・ストーカーの気持ちが分からなくもないがそれを実行に移そうなどとは全く思わないという考えに至る。自分の推し(一番お気に入りのメンバーのこと)に会いに行きたくてライブや握手会に参加したいという思いは当然湧くが、家の場所を突き止めて推しに会い、個人的な関係を持ちたいなどとは到底思わない。

また、昔よりもアイドルとファンの距離が物理的に近いため、私はこれからもストーカー事件が減るとはあまり思えない。ファンとの距離が近いことを売りにするアイドルが最前線を担っている現在、その売りを捨てて遠くの手の届かない存在にしたほうが事件が少なくなるのではないかと思う。

しかし、ファンである私自身もCD一枚買えば数秒間握手をする権利が与えられるという大きな魅力がなくなってしまうのはできれば避けたいと思ってしまう。ファンがルールを守ることでアイドルの大きな魅力も守っていくということは大正時代の硬派と呼ばれる一団が浅草オペラの風紀を守ろうとしていたように現在も重要なことであると考える。

以上より、現代の日本社会におけるコミュニケーションの問題であるアイドルとファンとのコミュニケーションについてアイドルという魅力的なものを守るためにファン自身がルールを守りファンがみとれた魅力を自壊させないようにすることが大切である。

 

 

 

参考文献:笹山敬輔 幻の近代アイドル史明治大正昭和の大衆芸能盛衰記 彩流社2014年

     福島章  ストーカーの心理学            PHP研究所1997年